9章 理から外れし者
『ヒュ──ッ』
最悪。屋敷に入った途端、落とし穴が開くなんて思ってもみなかった。
しかもあたしだけ落ちてる。まあ、パクティとこの暗い中しかも降下中一緒なんてまっぴらごめんだけど。
『ぐみゅ、ぶちぶちぶちっ』
降下の旅は何かが千切れる音によって終りを告げた。
予想していたような衝撃はあまりない。あたしはちょうど太い蔓が藁のように重なった場所に落ちてその勢いで埋もれた。
「あいたたた、ってことにはならなかったけど」
お尻から落ちたせいで、今人に見られるわけにはいかない格好で。スカートで散歩するんじゃなかったわ。
そんな体勢をすぐに直して、起きあがって蔓の山から抜け出る。振り返ってみると、蔓の山はあたしの背よりも分厚かった。
「助かったのかしら」
ここは、地下室よね? 入ってすぐに落ちたんだから。
それにしては何カ所か光の差し込む場所があるようだけど。その光の下でだけ、草花が群生してる。
石造りの壁と、同じく石が敷き詰められた床なのによく生えてるものだわ。植物って逞しいものね。
しげしげと植物の生命力に感心して見入っていると背後から急に声が響いた。
「おや、ここに人間がくるとは」
振り返っても、見えるのは蔓の山ばかり。あたしはすぐに後ずさって距離をとった。
そうすると近すぎて蔓の山からは見えなかったものたちが見えてくる。
そこには光源が一切ないからよくは判別できないけど、人の形をしているものだけははっきりと目撃した。
全身体中に巻きついてる蔓、額には小さな花弁だけがある。
「あんた、誰?」
「人に名前を尋ねるときはまず自分が名乗れ」
「霊媒師よ。名乗るほどの名は持ってない」
「そうか、不幸なことだ。私はグードン、かつては学会一の科学者として名を馳せた者だ」
あなたとは違ってね、と付け加えて陰気な地下室の空気を物ともせずに高笑いをしてみせた。
こいつが、グードン。迷惑な植物を作った奴ね。湖の植物がああなった元凶。
全身に植物が生やしている人間を人と呼べるものなのかは知らない。わかるのは油断ならないこと。
部屋の中には植物がある。今はまったく普通に見えるけど森の中の植物のように、人を襲うのかもしれない。
そんなにたくさんはないみたいね。でも、本来なら植物は緑色のはずなのにグードンの周囲にあるのは、どれもどす黒い。
理科の実験書で、食紅を混ぜた水を入れた花瓶に切り花を差すと食紅の色に茎や葉は染まるという記述を見かけた。
その通りのことがあれにも当てはまるというのなら、よっぽど赤い液体を吸い続けてきたってことなんでしょう。
おそらく、それは人の血。この森に入って植物に襲われた人が流したもの。
「ここに辿りつくまで凍結しなかった人間は初めてだ。もっとも、いつまで耐えられるものか」
「この森の冷気はあんたが原因だったの?」
「ああ。私自身が魔法そのものになってしまったからな。どうにもならん」
「それって比喩?」
「いいや、本当のことさ。笑いたければ笑うがいい」
笑えって言われても笑いどころがどこにあるのかわからないんだけど。
とにかく、こいつが冷気の原因でもあると思って間違いないわけね。
「聞きたいことは聞かせてもらったわ。あたしはあんたを倒しに来たの」
「ほお? あなた如きに植物を目覚めさせる必要もない、素手でお相手しよう。とはいえ、私の身体は普通ではないが」
「ごたくはいらない」
あたいが呪文を唱え始めると、グードンが笑いだす。なんなのよ、唐突に。
グードンは何もせず、ただ笑うだけ。 顔の筋肉以外は片手の指すら一本も動かそうとはしない。
今になって大人しく殺される気にでもなったの? そんなわけないわよね、あの笑い方は。
『魔法はやめたほうが良い。ここは魔法が跳ね返ってしまう』
「えっ?」
霊の気配なんてまったく感じなかったのに。人間のものより希薄な声が聞こえた。
弱々しくてどこからしたのかもわからない。あたりを見回してから、最後に後ろを振り返った。
空中に佇むグードンのそっくりさんがいた。そのそっくりさんを通して石の壁を視認することができる。
もちろんそれは霊体であることの証拠。彼は死んでる者。魂だけの存在に、肉質はない。
それはあくまで容姿がそっくりなのであって、本人だという確証はない。
そっくりさんには植物は生えていない。ごくごく普通の人間の姿をした、死者。
確証はないけれど、森の奥へと進む中でパクティに聞いた言葉に嘘がないのなら、それが肯定してる。
一度、グードンは死んだ。なら、どうして目の前に肉体を持ったグードンが存在しているの?
死んだというのなら、甦ったというよりも幽霊になっていることのほうが当然に思える。
本物のグードンは静止の声を投げかけたほうじゃない? だから、あたしはその声に従った。
そうするとグードンの顔から嘲笑が消え、顔が歪み、怒りを露にする。
「死者が余計な真似を……!」
死者の言葉に従うのは賢明な判断だったようね。
でも、魔法が使えないとなると武器で攻撃するしかない。だけどあたしは武器を持ってない。
魔法が駄目なら、お札を使う? いつ亡霊と遭遇しても対処できるようにと、それは今も手持ちにある。
だけど魔法が反射されるのならお札の効力も跳ね返されてしまうんじゃないかしら。
それを確認しようにも、考えたとおりのことが起きたならあたしは自分で墓穴を掘ることになる。
その間に、やられてしまったら元も子もない。困ったわね……。
考えはそこで打ち切られた。グードンに巻き付いている植物の蔓が襲いかかってきたから。
『ヒュッ』
蔓が足下をすくいにかかるのを、あたしは後ろへと跳んでかわした。
早いうちにケリをつけなきゃ。そうかわし続けてもいられないし、すぐ壁に追い詰められることになる。
この部屋は広いし、蔓は無限に伸びるわけじゃないからグードンが動かなければ射程範囲から逃れるのは用意。
蔓を伸ばしながら足を動かすことは出来ないのか、一度蔓を引き戻してからグードンは間合いを詰める。
これなら少しくらいは考える時間がある。どうする? 魔法は封じられてるし、お札も多分使えない。
パクティが此処に来るかはわからない。そもそもパクティを信用していいわけでもないし。
あたしが自分の手でなんとかしなきゃどうにもならない。手持ちにあるのはお札と魔法と、パクティから預かったもの。
ジャケットのポケットの中を探ると目当てのものがあった。よく落下中に無くさなかったものよね。
唯一使えそうなものといったら、この装置。……イチかバチか、これに賭けてみるしかない。
それしか手だてがない。使い方は知らないけど、霊と同化すれば良いのならあたしの十八番よ。
自分に霊を宿らせるように、この装置に。
『ヒュッ! ヒュッヒュッ!』
ツルが襲いかかってくる。もうすぐ壁に肩がついてしまう。グードンの顔に、また笑みが浮かぶ。
でもそんなの気にしてなんてられない。成功しなければあるのは死、のみ。
失敗したあとのことなんて心配してもどうにもならないもの。死んだ後の心配して助かるわけでもなし。
「誰だか知らないけど、手伝ってもらうわよ」
『それは……そうか、完成したのだね』
霊の声と気配が消える。それと同時に装置は透過し宙にはすらっと細長い剣が現れた。
それを掴んで感覚を確かめてみると、軽い!
「なにっ!? なんだそれは何処から呼び出した!」
蔓を切り落としながら、グードンに向かって突進する。心なしか、いつもより速く動ける。
驚愕に目を見開きながらも、グードンは後ろに飛びのこうとした。
だけど、させない。今となってはあたしのほうが速いのは明確な事実。
ツルは距離を詰める時に完全に切り落とした。額の小さな花を切り落として、心臓のあるあたりを一突きした。
「うっ……」
「観念して」
血が流れてこなかったけれど、剣を引き抜く。グードンは後ろ向きに倒れた。これで暫くは起きあがれないはず。
この隙にあの植物を全部切らないと。グードンのことなんて気にしてる場合じゃないわ。
あたしは植物の根本付近から茎を切っていった。植物にとっては根こそが頭になるはず。
首を切り落とされても生きてるなんてことはないでしょう、いくらなんでも。
どす黒い植物は、切ると茎からどろりとした緋色を流し出した。鼻につくにおいが漂う。
「はっ、……く。ま、さか……ここ、まで……とは」
あと一つという所でグードンが起き上がった。突いたくらいじゃ死なないとは思ってたけど!
あたしはまた心臓を刺した。やっぱりブスリという音はしても血は流れない。
此処でまた剣を引き抜いても、時間が立てば起きあがるでしょうけど。それでも、剣を引き抜く。
そして倒れるグードンのことは気にかけず、どす黒い植物を切る作業を再開した。
「これで、最後」
最後のやつはかなり時間がかかったけど、なんとか切れた。グードンが起きあがる様子はない。
死んだ、のかしら。ただ心臓を二度突かれただけで。一度では死ななかった男が。
『ありがとう。これでやっと……一つに』
霊があたしの前に現れた。上半身だけの霊体は剣から派生している。
まるで、宿っている剣から少し抜け出てきたかのように。
その霊体の横に、半透明の球体が寄り添う。それはグードンの身体から出てきた、何か。
霊体の腕が球を掴み、自らの胸にあてる。するとそれは、霊体の中へと染みこんでいく。
それが何を意味するのか、見当がつかなくもなかった。同化した、ということかもしれない。
だけど予想は憶測に過ぎない。謎を残したまま、霊は暗闇に溶けてしまった。
それが別れ。剣は何事もなかったかのように、もとの薄い装置に戻ってしまった。
『チュン、チュン』
雀の鳴き声が近くからする。窓のそばにいるんだろうなぁ、きっと。だってこれだけよく聞こえるんだもん。
「ふわぁ……えーっと、今何時かな」
ぜんまい仕掛けの時計を覗きこんでみた。あ、もうすぐ九時を回るね。
それを確認して、私は瞼を閉じた。だって重いんだもーん。それに、二度寝好きだもん私。
あー、でも皆はもう起きてるのかな? 起きてるよね、きっと。普通なら私も休日だろうと起きてる時間帯だもん。
休みの日だからってお母さんは寝坊を見逃してくれないから。二度寝する前に朝ご飯食べろって言う。
それをいえば、鈴実はどんな時でも朝が早いんだっけ。なんたって自分で朝ご飯を用意しなきゃならないから。
今日は、宿に泊まってるからその必要はないけど長年の習慣で起きちゃってるだろうなぁ。なら、私も起きようかな。
「んー、よく寝たわ。みんな、おはよー」
美紀もちょうど今起きたみたい。普段なら絶対にしない間延びした声出してるもん。
うん、ちょうどいいや。そう思って上半身を起こすと部屋には私と美紀以外はいなかった。
あれ? 皆、何処に行ったんだろ。靖は素振りかな、昨日買った剣振り回したそうにしてたし。
ラミさんは、街に詳しそうだから出かけたのかもしれない。レックとカシスは、空を飛んでるのかな。
でも鈴実とレリの行方は皆目見当もつかない。うーん、見知らぬ土地でも気に掛けずに散歩に出かけたとか?
そんなことに頭を使っていると、扉が開いた。顔を見せたのは、ラミさん。
「二人とも起きた?」
「はい。おはようございますー」
うーん、まだ眠いや。やっぱり二度寝したいなあ。でも、他の三人の居所も知りたい。
「鈴実とレリが、どこ行ったかしりません?」
「レリと鈴実ちゃんは……知らないわね。靖くんは宿の裏庭で剣の素振りをしていたけど」
多分、まだ窓の下にいるはずよと丁寧にラミさんは教えてくれた。
「二人とも、朝ご飯はまだでしょ? 食堂で食べてきなさい」
「はぁい」
「そうします……ふわっ」
「あらあら。まだ眠いの?」
だってラミさんが戻ってくるほんの一分前まで、私も美紀も夢の中にいたんだもん。
一階にまで降りて、食堂に入ると昨日出来た知り合いがいた。
光奈が、食堂の片隅の四人掛けテーブルに座ってサンドイッチを食べていた。
この宿は一泊二食付き、朝の食堂は宿泊客専用だよ? 昨日の夕食の時は、見かけなかったのに。
「どうして此処にあの子がいるのよ」
私の抱いた素朴な疑問をよそに、ラミさんは驚いたような声を出した。
「いや、それよりも。私がとるべき行動は一つだわ」
グードンの死亡をちゃんと確認してから、部屋の出口を探していると、どす黒い植物の下に隠し扉があった。
それをこじ開けて、近くに転がってた石を投げ入れて底を測ると十秒も立たずに音がした。
それくらいなら、なんの緩衝剤がなくても飛び降りるには問題ない深さだとわかった。
隠し扉の下へ降りてみれば、松明がぼんやりとあたりを照らしていた。廊下が伸びていた。
端まで行き着くと曲がり角があった。慎重に窺うと二十歩ほど歩いた先に階段がみえた。
天井に伸びているそれを発見して、上昇を始めた。そして今に至るというわけだけど。
「長いわね」
まったく、ここの階段は無駄に長いわよ。一体グードンのいた所は地下何階だっていうの。
三十分はこの螺旋階段を昇り続けてるはず。なのに終りがまだ見えないんだけど。
「これ以上、どうやって退屈を紛らわせろってい……あいたっ」
ゴツンと、かなりの強度を誇るものに頭をぶつけた。上から?
「何よ、これ」
見上げれば、岩の突き当たり。螺旋階段はそのギリギリにまで伸びてはいるけど。
一定の場所だけに何かの切り込みが入っている。長方形の四角が二つ隣接している形で。
扉なの? 切り込みの線の内側に手を置いて押し上げてみたら、少しは動いた。だけど、それだけ。
あたしの腕じゃ力不足で、それを浮かせるまでには至らない。あの調子だと、押し上げることが出来そうなのに。
「うそ……出られないじゃない!」
力があれば、脱出できるのに。上からなら、きっと開けることができるのに。
ここに出口があるのに、使えない。これが出口なら、きっと他に出口はない。
隠し扉は、一つだけだった。部屋の隅々まで確認して、もしかしたらと最後に目をつけたのが床だったのに。
もう一度、力を込めて線の内側を押した。少し上へと浮いたけど、それ以上は浮かない。
あの廊下は一本道だった。飛び降りてすぐに背後も確かめたんだから。後ろは、石の壁だった。
まだまだ、力を込めることが出来るはず。諦めちゃいけない。
螺旋階段だって一本調子だった。左右をなんど見ても壁に隙間なんてなかった。変に突起したところも窪んだところもなかった。
諦めて、力を抜いたらこの僅かな浮き上がりも下がってしまうのよ。浮いてるんだもの、可能性はある!
「っ……」
それでも、限界になるまで力を込めても状況の打開にはならなかった。
腕に引きつった痛みが走って、あたしはついに押し上げる努力をやめてしまった。
この頭上が開くなら簡単なのに。すぐに地下から出られる。だから、出口は一つしか用意しなかったんだわ。
でも、あたしに開けることは出来ない。そう認めざるを得なかった。
だけどそれでも、まだ諦めきれずに拳を握って岩を叩く。
「開けて! 誰かいないのっ、誰でもいいから……誰か!」
叫ぶことが最後に残された手段。それをせずに諦めることは出来ない。
でも、ずっと声を張り上げることは出来ない。いつかは声も枯れてしまう。
もし。もしも、それまでの間、誰も気づいてくれなかったら?
「ここにいるの、扉があるの! 上からなら、引っ張りあげることが出来るでしょう!?」
最後も手段も潰えてしまったら。その時はどうしろっていうの?
「誰でもいいから、気づいて……開けてちょうだい!」
そう絶叫して、拳を振り下ろすと不意に岩があたしから逃げた。
上に、浮いた? 岩の擦れる音がする。そのとき、パラパラと線の切れ目から砂が落ちてきた。
目を庇うために手で顔を覆って下を向いているとドンという音の後は何も起きなかった。
ゆっくりと手を離して見上げるとパクティがあたしの顔を覗き込んでいた。
「平気か?」
「なんで……あんたがそこにいるのよ」
言葉にしてから思い当たったけど、そういえばこいつ以外がこの場所にいるはずもなかったわ。
我ながら間抜けね。レリが助けに来る確率は、道がわからないところでゼロになるっていうのに。
「鈴実が呼んだからに決まってるだろ」
「別にあんたに限ったわけじゃないわ」
叫ぶのは無駄なあがきじゃなかったってことね。やっぱり、最後の手段はそうなるだけあるわ。
あたしは適当に言葉を返して螺旋階段を最後まで上り詰めた。ここまで来れば、地上も同然。
パクティは親切のつもりか、手を伸ばしていたけどあたしはそれを無視した。あと、三段。
「声がしなきゃ、到底気づかなかった」
それ以上は何も言わない。感謝しろとも言わないし、そんなことは求めてない。
ただ、手を引っ込めないだけ。あと一段、もう一度両足を動かせばパクティと同じ床に立つ。
けれどそこで、あたしは動かない。胸の前で腕を組んで一瞥を寄越す。
「そうでしょうね」
あたしが同意するとにっと笑う顔。手をずっと差し出してる意味なんてとうに気づいてたわよ、当然。
意地を張ることを止めて、あたしは指を揃えた手を持ち上げる。パクティの手も相応して上がる。
『パンッ』
あたしは手のひらでパクティの手の甲を軽くはたいた。
甘い、甘すぎるわ。
あたしはまだ、警戒してるの。人を攫うことを堂々と宣言したような奴の手よ。
「誰がその手をとるって言った?」
そして呆気にとられるパクティの前の前で最後の一段を昇った。これで完全に手を出す必要は消失よ。
助けたことに乗じて、そんなことをねだってるんじゃないわよ。
あたしは男の中では一番付き合いの長い靖の手だって、普段から取らないの。
そりゃあ、さすがにこの場面にいたのが靖だったら素直に感謝する意味で差し出された手を取るわ。
でも、こいつはイヤ。助けられたのは事実だけど、だからってそこまでしようとは思わない。
「グードンは倒しておいたわよ。それと、一応……ありがとう、助かった」
感謝してることは伝える。それをしないのは相手が誰であれ礼儀に欠くことだから。
パクティは意外そうな顔をした。何よ、そこまであたしが不躾だとでも思ってたの?
「まあ、これのおかげかしら。返すわ」
装置を返そうと思って差し出すと、パクティは首を横に振って受け取ろうとはしない。
「鈴実のものにすればいい。もともと俺には使えなかったんだし」
「だけど、貴重な物に変わりはないでしょう。そんなもの貰うわけにいかないわよ」
「いや、いい。あーそうそう。あの先に凍結した人間が二人いたぞ。鈴実の仲間だろう?」
それだけ言って、パクティは消えた。瞬間移動したのかしら。
あ、装置はともかくこのジャケットはどうするのよ? これも借りたものなのに。
「考えても……仕方ないか。なんだか朝から騒々しかったわね」
いなくなった相手のことで悩んだって無駄よね。溜息をつくしかないわ。
こんな調子で大丈夫なのかしら、あたし。すっかりあいつのペースに乗せられてない?
結局変なことは何もされなかったけど。敵なのに、変な奴。
パクティに示された道を歩いて行けば屋敷から外へと続く扉が開いているのが目に入った。
それをくぐってやっと外へ出ると、何故か焚き火で薬缶を熱している人がいた。
誰。っていうか、何を。薬缶を使うといえば、お湯を湧かしてるんでしょうけど。
どうしてそうする必要がある、って。キュラとレリが氷づけになってる! どうしちゃったの二人とも?
「君もこの森にはいったのか」
この人は、確かレリが最初に声を掛けた。ラーキさん、だっけ? どうしてその人がこんな場所に。
「あ、はい」
「君はこの二人と同じ目に遭う前に帰りなさい」
「え、いや、あの……はいそうします」
何だか声は静かなんだけど怖い。こういう相手には素直に従ったほうが良いわね。
それに、やっぱり禁止されていたのに通行してしまったから非はあたしたちにあるから強くは出られない。
ラーキさんは包帯を何十層にも巻いた手で薬缶を掴んで二人の頭上から熱湯を浴びせた。それで氷は溶けていく。
不思議とレリだけは水滴が残らず落ちた。服が濡れた様子もない。まだ魔法の効力が続いてるのかしら?
レリとは対照的に、キュラの服はびしょびしょ。湖に引きづりこまれたときからそうだったとはいえ、お気の毒に。
キュラは意識が戻らないうちからラーキさんに首ねっこを掴まれて、連れ戻されていった。
あたしはそんなことをやってのけるほどの腕力も余力も残ってないからレリの意識が戻るのを待つことに。
「どうしてあんなことになったの?」
「屋敷に入った瞬間に凍っちゃったの。だってすごく冷たい風が吹いたんだよ、誰だってそうなるよ!」
確かに、冷気を一段と強く感じはしたけど身が凍るほどじゃなかったわよ。パクティなんて涼しいって顔してたし。
「あたしは何ともなかったわよ」
でも、レリとキュラは凍りついた。不思議ね。どうしてあたしはそれを免れたのかしら。
まさか、このジャケット? いや、そんなわけないわよね。いたって普通の上着だもの。
それにパクティはこれを着てなくても全然平気だったんだし。確か、ノースリーブだったわよあいつ。
でも、冷たい空気の中で半袖も通り越してノースリーブでいられるのもおかしい。謎が増えたわ。
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